micasso’s diary

Welcome to my page!!イギリスの大学に通う舞台演出家志望の20歳による日々思ったことや留学情報についてのブログ

10年

10年と聞いて、長くも感じるし、短くも感じる。

現在20歳の私にとっては紛れもなく長い。人生の半分だもの。

今日はちょうど10年前、2011年1月16日から、私の中での大きなコンプレックスというか、人生の分岐点というか、大切な何かが生まれた瞬間というか、そんな、お話をしたいと思っています。

 

両親には「言っちゃうと生きにくくなってしまう。だからあんまり話さないでね」ってよく私に言う。だけど、私は私自身を見てほしいから、みんなに知っていてほしいから、10年というタイミングで隠さないでおこうと思う。

 

ずっと前から、いつか私に自信を持った時に、誇りをもって自分の口から私のアイデンティティについて話せたらと思っていた。

でも、自信がついてきても、なかなか勇気に出せず言うのに躊躇していた。そんなところ、友人から「third culture kidsのイベントをするからゲストスピーカーをしてくれない?」って頼んでくれたことで、より自分の中で整理して正々堂々と言えるようになりました。ありがとう。

 

 

2011年1月16日。

これは私が日本に初めて”暮らしはじめた”日。

その日までは、日本にまともに暮らしたことがなかった。

夏休みとかの長期休みでは帰ってきてたけど、それも少し観光客気分で、学校とかに行くわけじゃないので、”日本人”として日本に”暮らした”ことがない。

香港人と上海人の間に日本で生まれた私は日本国籍なのに、日本語もしゃべれない。

生後6か月で上海にある祖父母の家で祖父母に育てられた私は、親と暮らす感覚もあんまりわからない。

 

だから最初はただただ全てが怖かった。異なった言語、異なった文化、異なった背景を持つ人たち。小学校に入っても、言語が通じず、先生と英語で会話してた。ひらがな習ったばっかりで、文章もすらすら読めないから、国語の授業中は教科書を逆さまにして受けてた。友達ともうまくコミュニケーションが取れなかったり、”中国人”というレッテルが貼られてる以上、なんだか距離を感じた。

日本で暮らしていく上で、自分のバックグラウンドは社会との壁になることがわかって、小4ながらもう誰にも知られたくないって思った。だから、親から中学受験を勧められた時、こんな逃げ道があったんだって知って嬉しかった。塾では算数が得意だったけど、言語がわからないがゆえに授業中答えられなくて怒られて泣いた覚えがある。だけど塾では誰も私のバックグラウンド知らないから、同じスタートラインに立てれてる気がした。

 

無事中学受験に成功したあとは、希望通り「中高を通して自分のことを隠そう」って決意した。希望通りというよりも、自分を打ち明けた時のデメリットしか思いつかなかったので、押さえつけのような感じだった。

その時はもう日本で暮らし始めて2年経って、日本語を難なく喋れたので、周りの友達や先生にもバレずに生活できた。しかし、ある日に友達が家に来ると、私の母の日本語のアクセントが変だと気づかれたみたいで、SNSに「ミカソって韓国人らしいよ」って書き込まれた。勝手に書き込まれたのも、勝手に判断されたのも、それによって態度が変わってくるのも、あらゆる怒りと悔しさの感情が入り混じって、「なんで私こんなにも日本語も日本での生活頑張ってるのにこんな思いしないといけないのだろう」って両親に泣き叫んだの覚えてる。自分自身だけじゃなくて、家族自体に対して否定的だった。以前よりもっと人に自分のことを打ち明けるのが怖かった。

 

そんなことで気づけば中高を通して、堂々と周りに言う機会なんてなく、私の事情を知る子は本当に仲良かった子たちだけかもしれない。それでも言ったの高2の時とかだと思う。

こうやって自分のバックグラウンドをだんだん言えるようになるきっかけをくれたのは、高校1年生の時に行ったカナダで中国人の友達に言われた一言。

中国を離れて以来初めて中国人と出会って友達になれたので、思い切って、私の背景を話してみたら、「たとえ僕らの国同士が昔嫌な思い出があったとしても、あなたはあなた自身だし、僕は単に”みか”という人と友達になりたい」って思いがけない言葉が返ってきた。

はじめて自分という存在が認められた気がした。

 

思い返せば、私は周りに国のステレオタイプではなく、私自身を見てほしかったのだと思う。今もそう。

中国にいると日本人と言われ、日本にいると中国人と言われることが小さい時からよくあった。だから、物心がついた時から、「私って一体どこの人なんだろう」、「どう人格を演じれば正解なの」って自分のアイデンティティを思い悩むことが多くあった。どこの国にも属してるという感じがしなかった。そして、思春期になると「どこ出身?」とか「どこの国から来たの?」といった質問にも敏感になって、高校の弁論大会の文章では「私は~人、という言葉が嫌い」とまで書いた。

本来自分の強みになりうる部分を押し殺して、偽った”日本人”はしんどかったと思う。当時は日本人になれたって嬉しかったけど、それはただ自分を守るため、または目立たないようにするための手段の1つだった。”日本人”として扱われてもいやだし、”中国人”として扱われてもいやだ。

ずっと本当の自分を出したかった。辛かった。

 

ただ、歳を重ねて、いろんな出会いや経験を重ねていくうちに、これは私を構成する大切な一部だと思えるようになってきた。違った言語を使ってたり、違った文化の中で暮らしたりする中で、私はよく違った人格になるが、どっちも私だし、どっちもいい部分も悪い部分もある。だから、両方の国で暮らしたこと、思ったことの全てが他の人間をより理解するためのヒントだったのではないかと思う。また、様々な意見を言われて、自分の経験を悲観的に思っていたことはより人に寄り添えるためだったのではないかと思う。

これって立派な強みではないか。

 

そして、大学に入ってから、ちゃんと自分の背景を人に伝えれるようになって、かつての自分のコンプレックスは強みにもなった。誰かの助けになるのではないかと思えるようになった。私のようなThird culture kidsは意外と身近にいて、自分の背景に対して辛い思いをしていた。知った時は「私って一人じゃなかったんだ」って安堵感に包まれたのと同時に、「Third Culture Kidsは理解されにくいけど、ちゃんとした強みって自信を持ってほしい」と強く願うようになった。

だから私は、みんなが安心してありのままの自分を自信もって出せるような場所を作りたい。

 

 

最後に伝えたいことを。

これは他人事じゃない。

今この文章を読んでいるあなたには、気づいてほしい。

どの国だとしても、どれくらいの期間でも、どんな形でも、日本という国(いや、日本に限らずだけど)で暮らしていく上で、私みたいなマイノリティの人は未だに辛い思いをすることが沢山ある。だから、人に何かしらのレッテルを貼るのではなく、その人自身を見てあげて。あなたの周りにもこういう子がいるかもしれないってことを覚えていてほしい。

もしあなたがThird Culture Kidsならば、心に刻んでほしい。

あなたは1人じゃないし、きっとその経験が強みになってくるはずだよって。いつか誰かに話せれるようになったら、その経験を是非語ってね。

 

 

ミカソ