micasso’s diary

Welcome to my page!!イギリスの大学に通う舞台演出家志望の20歳による日々思ったことや留学情報についてのブログ

違和感

ここ最近、というかもう考え出してから4か月くらい経つ、違和感がある。この違和感に賛否両論はあるんじゃないかなと思うけど、私なりに大切にしていきたいと思った違和感だからブログに書こうと思う。

 

 

①「演劇が好き」という違和感

演劇の全てが好きだと思っていたけど、本当は好き嫌いが実在していた。最初は納得いかなくて、落ち込みもしたけど、ネガティブな感情は何かとクリティカルにしてくれるので、受け入れることにする。

演劇を知れば知るほど、演劇界隈の方と出会えば出会うほど、仕事としてしたい演劇、セオリーとして知りたい演劇、娯楽として好きな演劇など、私の好きな演劇にいくつもの種類が入り混じっていることに気が付いた。多分内部の軸の違いから成るものだろうか。

だからなのか、今までは「演劇」という枠組みだけに踊らされていたから、いざ何かしらのプロジェクトを深掘っていくと違和感を覚えてしまう。確かに私の好きなことだしやりたいことではあるけど、もっと違ったアプローチの仕方だったらもっと自分は楽しめたのかな、もっとモチベを持って実践できたのかななんて考えてしまう。

そして、「演劇」というもの(種類問わず)自体はすごく好きだけど、まだ本当の好きがわからないと思う。演劇で「これがしたい!」というのはあるものの、まだ知らない世界が沢山あるからこれは暫定的な好きで、不満を満足にするためのようなものではないかと思う。

コロナウイルスのせいにはしたくなかったけど、やっぱり大学に入って実習はあるものの、本来得られるような学びが出来ていないような気がする。オンライン演劇がしたかったり、人に寄り添った演劇がしたかったり、もしくはしてる。本来舞台照明や美術がしたかった私はこれを期待せずに大学に入ったが、コロナの状況下で満足の出来る舞台照明や美術の作業ができないからこそ好きなのかって永遠に自分に問い続けている。実際にする機会が増えたら、また興味が移るのかなとワクワクと不安が交互に来る。

ただ今は「好きなものに対して素直に好きでいる」のも、「好きに疑問を持つ」のもどっちも好きにまっすぐにいるための行為だと思うようになった。

 

②思考の違和感

「演劇が好き」の違和感の延長線上のようなものだけれど、たまに演劇人(この場合は自分が学んでいるイギリスではなくて、学問的な演劇があまり普及されていない日本なんだけど)と話していて、溝のようなものを感じることがある。

「なぜだかわからないけど、心地が悪い」という感覚がある。例えば一緒に働くと、私らしさが削られて、演劇が好きでなくなりそうな感覚。(うまく言えないなあ)

ここ数か月、日本にいる演劇人や劇団と関わることが多くあって、演劇やパフォーミングアーツについての思考の違いをすごく感じる。演劇自体のとらえ方、モチベーションの基、やり方の違いとか。日本の演劇界だなんて、私のよく知らない世界だからこそ探求していかないといけないのに、私には少し厳しい気がする、溝が少し深い。

きっと昔の私なら無理やりにでも参加して自分のものにしていくのだろうけど、「もっと自己中心に生きてもいいんじゃないのかな」って今は思う(もちろん他人の意見を聞いて心に留めるのが前提なんだけどね)。自分のやりたいことや思考が大勢からは共感されるけどやろうとはされない、もしくは”そういうものなんて無理でしょ”って否定されてしまう、出る杭は打たれるような世界だからこそ、私は染まらずに自分の思考を持ち続けたいというわがままを選択する。なければ作ればいいし、模索しながらも沢山の発見はあると思う。こういった自己中心になることによって失うものもあると思う反面、自分らしさは確立していけるのではないかとも思う。ある意味違和感は強みとも捉えることが出来るのではないかと。

 

 

この2つの違和感を正直言語化するのはとても難しいし、多分自分の色んな要素と交じり合ってとてももやもやする。だけどそんな違和感たちを大切にしていくべきものだと思った。違和感から何か新しいものや気づきが得られるんじゃないかと信じている。